「山稼ぎ」の村
京都市北区中川を中心とした、北山林業の地域は、古くから朝廷や寺院の所領として営まれ、木材や薪炭、松明、菖蒲などを納めていました。急峻な山々が連なる北山では平地が少なく、わずかな土地に点在する集落では、田畑よりも山林の資源を収穫する「山稼ぎ」(林業)が生業になっていました。水が豊かで冷涼な北山の里では、特に杉の木を育てるには適した地です。
しかし、平安京造営の頃から木材生産がさかんだった山国地方などと違い、木材を流して運べる広い川がなく、大きな木を運び出すのは困難な場所でした。いっぽう、都まで山道を歩いていくと半日ほどで一往復できる立地にあり、人力でも運べる小さな木にいかに付加価値をつけるか、ということを昔の人たちは考えていたのではないでしょうか。
技術の父と、遺伝子の母
北山の急な斜面での植林や育林は大変困難であり、また苗木はとても貴重なものでした。
そんな中、北山で編み出された独特な育林方法が「台杉仕立て」です。これは一つの株から数十本、多くて百本以上もの幹を育て、一つの株が一つの森のように、更新をしていくものです。これにより、植林の回数を減らし、収穫のサイクルを早め、ち密な木材を作ることができました。京都北部の積雪地帯で伏条更新をする天然の杉の木をみて考え出されたとも言われています。
お坊さんが教えてくれた「磨き丸太」
北山には、こんな伝説が伝わっています。
ある日、僧侶が旅の途中病気になってしまい、北山の村で行き倒れになってしまいました。村人は貧しい田畑でとれたわずかな食糧と寝床を提供し、懸命に看病したそうです。
おかげで元気になった僧侶は、お礼にこう告げました。「菩提の滝の滝壺にある砂で、丸太を磨いてごらんなさい。」言われた通り、皮をむいた丸太の表面を砂で磨いてみると、美しい光沢が現れ、その木は都で高く売れるようになり、「磨き丸太」の生産で村は大変栄えました。
というお話です。細い杉丸太でも、育て方を工夫し、遺伝子を選び抜き、表面を磨くことで付加価値を付ける。厳しい環境と立地に生きる、北山の先人達の知恵の結晶です。
北山杉、挑戦の歴史
室町時代、千利休によって「茶の湯」文化が完成されると、北山杉は茶室などの数寄屋建築に用いられるようになりました。茶の湯文化にとって、北山杉は欠かせない存在であり、桂離宮や修学院離宮にも使われています。江戸時代には民衆にも広まり、昭和時代には、和室といえば必ずと言っていいほど床柱に北山杉が使われました。
そんな中で、世界的にも特殊な林業を編み出した北山の先人たちは、常に新たな商品開発に挑戦してきました。明治期になると、突然変異で表面に自然にコブ状の凹凸(絞り)がある「天然出絞」の品種が発見、育成され、次々に新たな品種が生み出されました。大正時代には天然絞り丸太の表情を人工的につけた「人造絞り」の技術が生まれ、その後も様々な加工方法や使用方法を考え続けています。そんな北山杉は昭和41 年に「京都府の木」、平成10 年に「京都府伝統工芸品」に指定され、京都人の誇りとなっています。
北山杉とは、新しい時代に対応するべく新たな挑戦を続け、変化し続けてきた伝統なのです。